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生活できない人の生活ブログ

バーテンダー

バーテンダーをやっていたとき。

社長系のお客様から罵詈雑言浴びせられる事があった。

話を聞くと近日手術を控えているとのことだった。

この人にはそんな人生の厳しい時に、話せる人がいないのかと思った。

聞けばご家族さんもいて奥さんもいるという話なのに。

なんとなくだけど、彼は社会に責任を求めていたのかもしれない、社会にすがっていたのかもしれないと感じた。

彼からすると僕は社会だったし世間だった。

そんな僕を罵倒することで安堵を得たかったのかもしれないし、気がまぎれる関係性がほしかったのかもしれない。

それを認め、なんとかやりくるするのがバーテンダーの仕事だったのだろう。

それを思うと修行不足だった。

お客さんと心地よい空間を作るのがその時の目標だったのだけど、それだって結局は身勝手だ。個人の目標はお客さんには関係ない。

さすがにほかのお客さんに迷惑になるようならお引取りしてもらいます。

金を出しているというのなら、そのお値段ではそれ以上は無理です。そうとしか言えない。

大体そういうもの。

 

日常

日がな一日親のすねをかじり、思い出を整理する昨今。

タバコをふかしPCを見て。父にこんなことをしていた、こんなことがあったと話ている。

こういった事は子供のころはまったくなかった経験だと思う。

ありのまま客観的にあったことを話す。仕事には必要なものだと思う。

親にも話すのはためらわれるような子供だったように思う。

しんどいことも楽しいことも、素直には話せなかった。

人からどう思われるかに、いつもびくびくしていた。

関係が変わってきたのかもしれない。

ありのまますべて話せるというのは、本来は親ぐらいなのかもしれない。

社会関係は少しずつ距離をとりつつ、話し合ってくっついたり離れたり。

 

 

学歴

大学を中退した後、在学時の延長線上で声楽業界で何年か仕事をさせてもらっていました。
その時はあんまり疑問にも思っていなかったのだけど、中に入って見たら基本的に大卒の人ばかりで、実家ぐらしの方が大半という感じでした。
業界を見回すと声楽家という職業自体、実家ぐらしでないと成り立たない側面もあったり家族のバックアップがないと難しいという現実があるんだという事実がありました。
先の事を考えると、あくまでその業界に関しての話だけど、大学を卒業しているかどうかというのも大きな意味を持ってくる。
進路選択にせよ教職であったり、団体であったり、基本的に大卒でなければ入れないところがおおい。民間の教室であっても、大卒でなければ応募資格すらないというところが大半だ。
実力と人間性が大卒かどうかでわからないし、直結はしないだろうというのは今も昔も変わらず思うけど、社会の側はそうはみない。実力や人間性を初対面でそこまで分かるかといえば分からないだろうし、じっくり見てくださるほど親切ではない。
あとこれは今だから思うことだけど、大卒というだけでも、四年その場所にいて、空気を吸ってその専攻を勉強したというのは、確実にその人間性や実力に影響しない訳がないと思う。その事実に関しては素直に尊敬できる。

元元中退の一人暮らしが声楽業を続けていこうというのは非常に無理がある話だったし、自分の立場も客観的には見られてはいなかったと思う。

どこか中退でも自分はすごい人間になれると勘違いしていたのだと思う。
実際に声を聞いてくださり、お仕事まわして下さる方もいて、それは素直にとても嬉しいだったけど、その承認にかまけて、家庭環境、現在の生活事情合など現実的な所は二の次だったように思います。

仕送りをもらっている身の上で、実家とコンタクトを全くとっていなかったというのも人としては歪だったと思います。
家はどちらかというと放任主義で、自分の事やあった事を話すという事はありませんでした。
幼い頃から、あまり自分の立場というのをよくも悪くも意識はできていなかったように思います。そのせいか結果的にいいように使われるという事も多かったです、

仕事とは関係のない、プライベートな話だけど、友人とバンドを組んだ時がり、誘ってくれる時に、君がしんどくないならやってくれないか?と言ってくれました。
実力がどうとかは何も知らない人で、自分の事を尊重してくれるんだなという感じがとても嬉しかったものでした。
ずいぶんと気を使ってくれるんだなぁと感激したものです。
頼れる事があれば頼ってくれとも言ってくださいました。

生まれ育った環境では、あなたがしんどくないなら。というような事を言ってくださる人は誰一人いませんでした。だからか非常に新鮮な感じを受けたものです。

今は鬱になってニートです。基本的にしんどくないようにやれる事をやれてればいいなと思います。
しんどいのはたまにでいいでしょう。

他人事

昔、中学の頃。先生が亡くなられたという話を聞いた。
僕は後からその話を聞いた。
特にその先生が亡くなられた事はショックでもなかったが、葬式の存在すら知らなかったのは少し落ち込んだ。
自分は集団には縁がないんだなぁと思った。

思えば昔から人の中で過ごすというのが苦痛で、帰って一人になるのが一番安心したものだった。

いつも一人でいる人というレッテルを付き合いがあると思っていた知人にもよく言われていたように思う。

何時の間にか孤立という感覚は自分にはよくある事だった。

ただそれにせよ、個人的に嫌悪感を感じていた人に何故かついて行っていた自分がいた。
優秀な人が周りには多かったように思う。
そういう事で人を選んでいた自分はもしかしたらいたかもしれない。

自分をよく見せようなんて思わなくていい。自分がシンパシーを感じる相手に向き合えたらきっと楽になれるのに。

自殺

20才、大学を中退して引きこもりだったころ、近所の同級生の女の子が自殺したことがあった。

命からがら生きながらえたものの、もう長くはないという状態だった。

その子とは面識はあったんだけど、特にかかわりがあるわけでもなく、高校も同じだったのだけど、すれ違いざまに挨拶する程度の間柄だった。

母親とその子の母親は宗教がらみでつながりがあったらしく、合わせた目的というのはどうも僕に自信をつけさせようと思ったらしい。

彼女らがいうにはこの子みたいな子もいるんだから、頑張れ。ということだった。

話を聞くと、高校を中退した後、水商売をしていたらしい。

母親が言うにはクリスマスに彼氏がいなかったりするのを嘆いていたという。

恋人がいないということに関してそこまで深刻に思いつめるということもなかったけど、世間から切り離された感覚というのに絶えがたかったのかもしれないし、もしそうならその感覚はよくわかると思った。

ただそれを聞いたとき、僕はひどく残念に思った。

死ぬぐらいだったら、どこか別の環境や身の置き場に飛び込んでみたほうがいいと思う。クリスマスに彼氏がいないだとか高校中退なんて世界中にたくさんいる。それで人並みでないなんておかしい話だ。

人並みになんてできなくてもいい。死なないことよりも大切なことなんてない。

最悪なのはそういう普通の基準という幻想を糧に人を追い込む精神性だろう。

 

植物人間になっていた彼女はもう長くはないということだった。

去年、彼女も亡くなったということを聞いた。

 

 

 

暗い

昔から人間不信であったと思います。

同時に人に対して求めるところが多かったと思いますし、自分がどうしたいかでなく、期待に答えようと思う比重の方が多かったように思います。
意見を言えと言われると何も言えないというのはところはあったように思います。
 

世間

重度の知的、自閉を持っていた妹に関してはよく学校でもとやかく言われる事が多かったように思います。
お前の妹がどうしてただとかを聞てもいないのに話してくる方もいました。
よく妹の真似をされて馬鹿にされるような事もあったのですが私は何も言い返せませんでしたし、その時はなんだか恥ずかしいという思いすらありました。
家族で外に出かける時もいきなり泣きわめくような事もあり、周りの嘲笑の目は気になっていたように思います。
幼心にも、障がい者を馬鹿にする人間はクズだと思っていたと思いますが、自分は特になんの言葉も持たず、怒りを溜め込んでいたように思います。
妹に関して個人的に思うことといえば特にありません。可愛いとも憎らしいとかいう感情も特にありません
後後の事を考えると一番近しい親族として自分に色々面倒がかかってくるのが重いなと思うぐらいです。
ただ自分の最も忌み嫌う人間性として、人に対してレッテルを貼るということ。
明るいだとか暗いだとか性格上のものを始め、人格に訴えかけるような事、素人判断で精神医学上の鬱だとか一方的に決めつける精神性はどうしても受け付けないなって今は思います。
自分自身そういった人々にかどわかされてきたようにも思いますし、今は相手にする気すらおこりません。

以前カフェでコーヒーを飲んでいる時、電話で説教をされている方がいました。
おそらく相手方が仕事に不手際があった様子です。
「何故お前が理解できないかというと知的障害だからだよ」
というような事をおっしゃっていたように思います。
学校などでもそういった言葉は飛び交うような事はありました。
自分や妹に向けられているわけでもないのに、その度にどこか居心地の悪い思いをしていたように思います。
何故かはうまく説明できませんが、一人で生きているわけではないというのはそういう事なのかもしれません。
言葉には気をつけなければと思うこの頃です。